映画の推し事:“自閉症”は感動を呼ぶ装置ではない 「平行と垂直」の偉大なる平凡さ
映画が始まって間もなく、「平行と垂直」というタイトルの意味が見えてくる。奇異に映るかもしれないが、自閉症スペクトラムの日向大貴(安田章大)にとって、それは世界を生きていくためのごく自然な方法なのだ。
しかし、自閉症者を描く方法は、長いあいだそうではなかった。映画史的にも重要な「レインマン」で、ダスティン・ホフマン演じるレイモンドは、コミュニケーションに困難を抱える一方、驚異的な記憶力と計算能力を持っていた。その鮮烈な印象は、作品の意図とは別に、自閉症には障害を埋め合わせる特別な能力が伴うという幻想を残した。
振り返れば、それは障害のある人を社会の構成員として受け入れる方法をめぐる問題でもあった。多くの場合映画の中では、非凡な才能や目覚ましい達成、純粋な心、あるいは献身する家族の愛があって初めて、その生は尊重される理由を得る。善意と感動に包まれているからこそ見えにくい、一種の「条件付きの市民権」である。
「平行と垂直」の驚きは、その「条件」を拒むところから始まる。大貴に障害を埋め合わせる特別さを与えることも、彼を哀れみや保護の対象として見下ろすこともない。「障害があっても結局は“私たち”と同じなのだ」と差異を消すこともない。
同時に、保護する側のまなざしも警戒する。障害のある人に「純粋無垢(むく)」「逆境の克服」「家族の犠牲」といった条件を与え、感動をひき出そうともしないのだ。
一方で本作は、そうした装置を避けながら現実の困難まで消し去ろうとはしない。誰かの助けを借り、別の誰かには好意を差し出す。他者を理解できず、自らも誤解される。障害のない人には当然のように許される矛盾や不完全さを、自閉症者にも等しく許している。
ここで問題は、障害の有無ではなく「理解」に近づいていく。他者を理解するとは、理解しきれない何かが相手に残ることを認め、それでも関係を手放さないことだ。そこからコミュニケーションは始まる。
現在と過去を往還しながら、大貴と姉の希(のん)の関係が一朝一夕につくられたものではないことを示す。家族であっても、犠牲で結ばれた共同体ではなく、完全に理解し合う理想的な空間でもない。
そこでは「自立」の意味も変わる。私たちは誰もが他者に頼り、ときには誰かの重荷にもなって生きている。それなのに障害のある人にだけ「一人でどこまでできるのか」を求めるなら、それもまた一つの「正常性」である。
脚本がステレオタイプを拒んでも、特徴的な身ぶりや話し方を組み合わせ、「自閉症者」として分かりやすく提示した瞬間、一人の人間は再び類型へと還元される。
大貴には歩き方や視線、手の動きや発声、反応するまでの時間にも固有のリズムがある。彼の身体にも、タイトルが示すような座標がある。印象的なのは、その内側で動く感情だ。安田はそれを説明するために演技を大きくしない。
身体の規則はほとんど変わらず、一見似た表情や仕草にも、喜びや不安、戸惑いや怒りの振幅が微細に変化する。観客は誇張されたシグナルではなく、その小さな差異を自ら読み取る。見慣れなかった表現の文法を、観客も少しずつ学習するのである。再現の正確さを超え、観客が人物を見る方法まで変えていくのだ。
その向かい側にはのんがいる。実を言えば、鑑賞前により注目していたのは彼女だった。近作の「てっぺんの向こうにあなたがいる」でも、演技の温度と大きさを変える力が際立っていたからだ。
彼女の演技は、相手に対して開かれている。本作でも表情や動作で感情を先に示さず、相手への反応から感情を生じさせるリアリズムのアプローチを見せる。
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