ハンセン病で74年隔離の男性 故郷で初めて語った自らの半生
「『1年半もあればもんて(戻って)これる』と言われて、軽い気持ちで療養所に行った。それから74年になる」――。高松市沖の離島にある国立ハンセン病療養所「大島青松園」で16歳のころから暮らしてきた野村宏さん(90)が5月、高知県土佐清水市に帰郷し、初めて公開の場で自らの半生を語った。地元の元中学教諭らの熱意で10年越しで実現した講演会。野村さんが今、もっとも伝えたいこととは。
野村さんが故郷を離れ、青松園に向かったのは、1952年だった。太ももにあざができ、ハンセン病と診断された。自宅を訪ねてきた県の医師に「今はプロミンといういい薬があってすぐもんてこれるから」と入所を勧められた。すぐ上の兄に付き添われて早朝、バスに乗り、夜行列車に乗り継いで高松市へ。もう会えなくなると案じた母の鹿代さんが髪を振り乱してバスを追いかけてくるのを、不思議に思ったという。
療養所のある大島では、患者の生活エリアと職員エリアとは有刺鉄線で区切られていた。24畳の部屋に12人が寝泊まりする共同生活。退所の規定はなく、島内に火葬場や納骨堂もあった。野村さんは「死んでも出さんという場所。療養所と言っても、収容所そのものだった」と振り返る。
野村さんによると当時、約700人の入所者に対して、看護師は18人しかいなかったという。人手が足りず、軽症だった野村さんは、注射針を研ぐなどの治療補助や重症者の付き添い看護、施設を修繕する大工見習い、豚舎の世話、亡くなった入所者の火葬までさせられた。
「病気で来て、まさかこんなことをさせられるとは思わなかった」。末梢(まっしょう)神経の感覚がまひした患者たちは作業中のけがに気づかず、後遺症につながることも多かった。野村さんも作業時のけがが元で、手の指先を失うなどしたという。
そうした暮らしの中、野村さんは20歳で結婚した。相手は同じ療養所で暮らす19歳の女性。「2人で支え合ってきたから、生きてこられた」と振り返る。ゲートボール大会で全国各地に出かけたり、船で仲間と釣りをしたり、療養所の中でも楽しみを見いだしてきた。
しかし、2人に耐えがたい事態が起こる。妊娠した妻の春美さんが、堕胎させられたのだ。当時、療養所の入所者には旧優生保護法(96年に廃止)が適用され、男性は避妊手術を受けさせられ、女性は堕胎させられていた。野村さんは「療養所にある研究室のガラスの割れ目から、ホルマリン漬けにされた赤ちゃんがたくさん見えていた」と語る。自分たちの子どももそこに並ぶと考えるとあまりにつらく、「山のてっぺんまで行って泣いた」と明かした。
それでも、国は隔離政策を改めず、各地の入所者らの運動を受けてらい予防法が廃止されたのは、戦後50年を過ぎた96年のことだ。九州地方の入所者らが98年、隔離政策は違憲だったとして国家賠償訴訟を熊本地裁に提起。弁護団は全国の療養所で原告を募った。
「国は(民法の「除斥期間」を主張し)20年以上前のことは言ってもだめだと言う。強制収容や強制堕胎もさせていないと言う。悔しさが募って、それなら闘おうと思った」。野村さんは訴訟への参加を決めた。
2001年に熊本地裁が国の賠償責任を認める判決を出すと、野村さんら原告は首相官邸前に座り込んで国に迫り、国会議員らへの働きかけと相まって小泉純一郎首相(当時)は控訴を断念した。
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